
私たちは、「~する」や「~される」といった能動や受動の文法で、ある行動や出来事を説明する。ところが、人類はかつて能動態でも受動態でもない「中動態」を文法の中に持っていた。
中動態を使うと世界はどのように言い表されるのか。中動態はなぜ失われてしまったのか。『中動態の世界 意志と責任の考古学(文庫版)』(新潮社)を上梓した哲学者で東京大学大学院総合文化研究科教授の國分功一郎氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)
──「私が何事かをなす」について、能動と受動の区別が実は曖昧だと説明されています。これはどういうことでしょうか?
國分功一郎氏(以下、國分):自分が何かの行為をすることを考えてみると、「この行為をしよう」という意志が自分の中にあり、その意志を自分が実現しているというのが最も素朴な行為に対する考え方だと思います。でも、よく考えてみると、そう事は単純ではありません。
たとえば、「歩く」という例を本の中で取り上げました。私たちが歩くときに「歩こう」とか、「どのようにして歩こう」とか、どこまで意識して自分の歩くという行為をコントロールしているかというと、実際は非常に曖昧ですよね。
人体というものは複雑で、指や関節など、どのように足の各所を動かして歩いているかなんて、いちいち頭で考えて指示を出しているわけではありません。自動的に身体が歩くという動作を行っているのです。
昔の日本人は、右足と右手が同時に、左足と左手が同時に出る「ナンバ歩き」と呼ばれる歩き方をしていたそうです。畑仕事の影響でそうした動きになっていたとも言われていますが、この時代の人たちは、右足を出したら左手を出すという西洋の軍隊方式の歩き方がなかなかできなかったそうです。
人間の行為や行動というものは、自分でよく考えて行っているというよりも、習慣に強く限定されているのです。
さらに本質的なことを言うと、私たちにはそれぞれ過去があるし、私たちを取り囲んでいる周囲の環境もあります。経験や環境の影響下でしか私たちはものを考えることができません。
こう考えると、私たちの行為というものは、純粋に自発的な自分の意志の実現である、などとはとても言えないはずです。
ところが、私たちはあたかも自分たちの意志によって行為したことが実現したと、そこだけを考える。これが、この本の中で語っているテーマと私の疑問の出発点です。
能動や受動という概念は、意志による行為の考え方を極端に単純化して振り分ける装置です。人からやらされる形での行為は受動ですが、自分でやろうと思った上での行為は能動です。
こうしたことが鋭く問題になるのは、たとえば刑法に関わる犯罪行為です。殺人と過失致死の違いは、まさに能動と受動の関係です。殺意がなければ、殺人罪にはなりません。
私たちの社会は、能動と受動を分け、人間の行為を分類することで成り立っています。しかし、その振り分け方は本当に妥当なのか。その振り分け方によってさまざまな問題が起こっているのではないか。さらに言えば、その振り分け方が当たり前だと思っている社会によって、すごく生きづらくされている人たちがいるのではないか。
こうしたことを取り上げたいと思って書いたのがこの本です。
──ある行為を、自らの意志で行ったと言えなくなると、その行為の責任の所在も分からなくなると説明されています。